私はブログのタイトルに社畜という言葉を使っています。
私は1つの会社に勤めながら、組織や顧客、上司の意向に振り回されながらも、残業を厭わず働いています。そして日々の少しずつのスキル向上や達成に喜びを感じる。あるときは会社を憎み、あるときは感謝し、愛憎を織り交ぜながらも、結局は会社に依存して、働く。
そういう意味で「社畜」という言葉を使っているのです。
一方で、世間には「ブラック企業」で働いている人々がいて、残業100時間とか、給料が激安だとか、上司から壮絶なパワハラを受けていて、それでもそこで働かざるをえない人々、すなわち私以上の「社畜」と呼ばれる人々がいるという事実があります。
そういう状況を差し置いて、面白半分にブログタイトルに「社畜」という言葉を使うのは如何なものかと、正直違和感を感じていたことは否めません。
「社畜」という言葉以外で、何かよい言葉がないかと考えていたところ、「ネオ社畜」という言葉があるのを始めて知りました。記事から引用。
企業を信用しなくなった若い世代は組織で働くことを忌避し、日々の仕事に汗する勤め人を「社畜」と馬鹿にする。しかし、人材コンサルタントの常見陽平氏はあえて今「社畜」としての道を極めることが、厳しい時代を勝ち残る術だと喝破する。
「社畜」という言葉は字面からしてイメージが非常に悪い。インターネット上を中心に、「会社の家畜(歯車として奴隷のように働く者)」という意味で使われる用語だが、「会社組織にしがみつくだけの馬鹿な奴ら」という侮蔑のニュアンスが含まれる。
自分らしさや個性を大事にする若者世代は、社畜に強い嫌悪感を抱く。そしてブームとなったのが、カフェでMac Book Airを開いて仕事をする人々に代表される「ノマド(遊牧民)」というスタイルだ。SAPIO2012年11月号で私は、流行に乗っただけのノマドたちを批判した。
ただし、「社畜」と「ノマド」の二項対立を深化させてもあまり意味はない。私は現在フリーランスとして生計を立てている。言ってみれば「ノマド」かもしれないが、その基礎は会社員時代に「社畜」として学んだものだ。
社畜のイメージは、個性を大事にする現代の雰囲気に合致しないかもしれない。しかし社畜でいることにはたくさんの効用がある。だから私は、社畜を評価できるものとして定義し直したいと考える。
そもそも、本当の社畜は指示されたことをただ黙々とこなせばなれるものではない。真に組織の利益を考える人間は、目の前のタスクと真剣に向き合い、努力を積み重ね、その中で新しい価値を生み出せる存在へと成長していく。
私はそういった健全な愛社精神を持つ社畜を“ネオ社畜”と呼ぶ。自分が主役でないことを受け入れた上で、エンドユーザーや取引先はもちろん、上司や同僚といった周囲の人に感謝し、期待に応えようとする中で、新しい価値や利益を生み出す存在のことである。「強い社畜」と言ってもいい。
こ、これは・・・・
いいじゃん・・・ネオ社畜(ウットリ)
特にこの「健全な愛社精神」という言葉がいいと思います。会社や上司、同僚に100%満足するなんて理想的な状況はまずないわけで、そんな状況を受け入れつつも何かを達成するために働き、その結果会社に利益をもたらす。これが「健全な愛社精神」ではないかと思います。
私は黒木亮とか城山三郎の経済小説が好きなんですが、そこで出てくる主人公たちも「ネオ社畜」なのかもしれません。会社に振り回されながらも目標達成に向けて邁進していく。こういう考えは昭和なのかもしれませんが、それでもやはり私の心の琴線に触れるのです。
とはいえ、私は「ネオ社畜」にもうひとつの定義を与えたい。それは「愛社精神を持ちつ一方で、ひとつの会社に依存し続けることの危険性を自覚している」という点です。
今の時代は変化が激しいので会社の業績がいきなり悪化、最悪のばあい倒産なんてこともありえます。そんなとき資産もないとか、金もないのに多額のローンを抱えている、というのはジ・エンドでしょう。
何故こういうことが起きるかというと、「うちの会社はつぶれない」という根拠なき自信です。私はこの考えは捨てたい。
健全な愛社精神をもちつつも、会社から受け取る給料が減るか途絶えるというリスクを認め、資産運用で対策をとる。
これが令和の「ネオ社畜」でありましょう。