経済小説で有名な城山三郎氏の著書に、商社マンの日常を描いた「毎日が日曜日」という小説があります。
総合商社という巨大組織に振り回される商社マンの悲哀の読み物としては面白いのですが、そこに出てくる笹上というオッサンが面白い。
競争の激しい商社の中で出世できず定年日には「定年バンザイ!」とオフィスで叫んで意気揚々と退社。実は彼は離婚済みの独身で、現役時代にコツコツ貯めた金で居酒屋4件の大家をやっていて家賃収入があるから金には困らない。
リーマン生活から解放された笹上は解放感を味わうも、徐々に違和感を感じていきます。
定年直後、笹上は、無為にして怠惰な生活をよしとしていた。たた気ままに長生きだけを心がけよう、と思った。だが、いまとなって分かるのは、「無為にして怠惰」が、「気ままに長生き」と直結してはいないらしい、ということである。「無為にして怠惰」は、いまの日本では、とても黄金の色はしていない。灰色か、せいぜい銅色の生活である。「気ままで長生き」するためには、少しばかり内容があり、働きがいがある生活が必要のようであった。何か一つ、軽く支えになるものがあり、また軽く頼りにされるものがあっていい。
退職したものの仕事に飢えてしまった笹上は、人材銀行(中高年の就職を斡旋する機関。現在は廃止されてる)に向かって思い切って再就職先を探します。係員に職歴シートを書くように促されるのですが、このシーンが見ていてとても辛い ww
さて眼目となるのは、分量的にもシートの半ばを占める「専門知識・技術・能力の内容」欄への記入である。そこへ、笹上の無形資産のすべてを書き出さねばならぬわけだが・・・。
ただ、その内容は、たらい回しにされ、追いまくられ、むやみにあわただしい歳月を送ったというだけであって、とくに「研究」も「調査」もしていない。「精通」してもいないし、「自信あり」などとはとても言えない。そんなふうに考えていくと、何も書くことができなくなる。つまり、そこもまた空白で出すしかない。強いてその間身に着けた「能力」をあげようというなら、「駅前貸店を四軒つくった能力」しかないわけである。五十七年の人生を総決算として、それは貧しすぎるのか、それとも、十分すぎるのだろうか。・・・
笹上は息苦しくなった。ペンをとり、「長期間、海外駐在の経験あり」とだけ書いた。・・・「専門知識・技能・能力のある内容」欄全体が、空欄のように見えた。「就職についての希望事項」にはためらわず「随意、臨機につとめたい」と書いた。「資格・免許」欄はよもに空白。・・・
係員は一読すると、目を大きくして、笹上を見上げた。
「これじゃ、とても、だめですよ」・・・
「これが本音だとすると、率直にいって、あなたは内向きではありません。職業安定所へでも行かれたらどうですか」
うーん、読んでいてとても辛いです。胃が重くなる感じがします。
現役時代はシャカリキに働いても、人からコントロールされるだけで何の能力も身につかない。60年間生きてきて身につけた能力を簡潔に書けと言われて、何も書けないという現実を受け入れるのは、吐き気がするほど辛いと思います。
配当収入が年間300万円あるから大丈夫?キャピタル・ゲインが1億円あるから大丈夫?いや、そういう問題ではないと思いますよ。 自分がどういう姿勢で仕事に取り組んできたか、人生が問われていると思うんです。この本の笹上の見てください。
私もサラリーマンなので会社にコントロールされながら生きていますが、少なくとも小さいながらも何かを成し遂げて、社会に何かを残したいという矜持は持ち続けたいと思っています。それすら成し遂げるのは大変難しいことなんですがね。
う〜む。確かに考えさせられる…
問題が起きた際のらりくらりと論点をずらし
涼しい顔で新たに提案する事が出来る。
どうですかね?
何?職安も無理?w
コメントありがとうございます。
のらりくらり論点をずらしてやり過ごす方法も使えると思いますよ。
多用すると嫌われますが ww 職安も無理でしょう ww