チャンドラです。
新年が始まりました。会社では多くの人が「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」と挨拶回りをしていました。
ところが一部の若い人(私も若いけど)は「明けましておめでとう」が言えない。普段会話をする人でも、ちゃんとできていない人が少なからずいるのです。
実は私も数年前までは「明けましておめでとう」とか言うのはイチイチ面倒くさいな~とか考えていました。まあ日本の伝統だからやっとくか程度でした。
ではなぜ伝統に則って「明けましておめでとう」と言うことが大切なのか?そもそも何故伝統に従うのか?
挨拶は共存への意志
私が最近読んでいる「大衆の反逆」という本にそのヒントが書かれていました。スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットが書いた本です。
「大衆の反逆」の内容を簡単に言うと「物質的に恵まれた環境におかれ、その恩恵を忘れて自らの権利ばかりを主張する甘やかされた「大衆」が権力をにぎるのが現代の「大衆社会」だ」です。
とても内容が深い本なので詳細は別途紹介するとして、私が気になった文を引用します。
手続き、規則、礼儀・・・・これら全てはいったい何のために発明されたのだろうか。かかる煩雑さはいったい何のために創り出されたのだろうか。
これらは全て「文明」という言葉に要約されるものであり・・・そうした煩雑さの全てをもって共存を可能たらしめようというわけである。
これらすべては各人がもっている他のすべての人を頼りにしたいという根本的・漸増的な欲求を前提としているのである。
文明とは、何よりもまず、共存への意志である。
つまり挨拶は人間が「共存していく」うえで必要なのです。
人間は人を頼らずに生きていくことはできません。たとえ「自分は人に頼っていない」と考えたところで、コンビニでお茶を買うだけで多くの人に頼っている。茶葉を育てる人、飲料メーカーの人、ペットボトルを作る人、それを工場からコンビニに運ぶ人、レジ打ちの人、などなど。
だから挨拶をするのは「自分が人に頼って生きている」ということを謙虚に示す行為ではないだろうか。その謙虚さこそが共存への意志だと思う。共存への意志がなければ文明はなく、それは野蛮ということです。
こう考えると、「明けましておめでとう」と言わないのは、「自分は誰にも頼らず生きています」という意志の表明になってしまいます。これは明らかに損です。なぜならそのような表明をした人を(キリストのような聖人は除くとして)他人は絶対に助けてくれないから。そしてそのような考えは必ずと言っていいほど体からにじみ出てしまう。普段の挨拶、態度、話し方、などなど。
まずはやってみる
挨拶が共存への意志、とか言われてもピンとこないかもしれません。難しく考えず、まずは身近な人に対してニコッと笑って「明けましておめでとうございます」と言ってみるのがいいと思います。一人に対してわずか5秒で済むことです。「やらないよりやっとく方がマシ」の考えでいいと思います。
そういうことを繰り返して人を助けたり人に助けられる経験をすれば、「共存」の意味も自ずと分かってくると思います。
私もやっと少しずつ分かってきたところです。
それでは。
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